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PSYCHO-PASS サイコパス2 最終回 感想・考察③【サイコ=パスって何?】 [PSYCHO-PASS サイコパス]

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いよいよ劇場版の公開が間近に迫ったサイコパス。

なんだかんだで年末は忙しく、もう少し書きたかった「2」の感想が中途半端になっているのですが、思ったことだけは書き留めておこうと思います。


「2」でより深く描かれていたことで、「あぁ、なるほど」と理解したのが、結局サイコ=パスって何だよってことですよね。


鹿矛囲が集合的サイコ=パスをシビュラに認めさせたことは、あの世界にとって大きな変革だったわけですが、そもそもサイコ=パスというものはこういうものですというのは具体的に示されているわけではない。

それでもそれを機軸として物語が成立しているわけですから、それ自体が我々に問われているテーマであるともいえるわけです。


私が現在のところ思っているシビュラがサイコ=パス診断で問いているのは、「その人物がどれだけ強く社会を信じているのか?」というスカラー(量)であり、その人物が信じる社会に及ぼす危険度が『犯罪係数』として測定されているのだろう、というものです。


この場合の「信じる社会」というのは、認識している自分の居場所や属する集団みたいなもので、必ずしもそれがシビュラの見守る社会である必要はないと考えられます。

単純にシビュラへの信頼度と危険度を測定できるのならば、免罪体質者は存在しないでしょうし、鹿矛囲が行った色相浄化の薬剤投与やセラピーもシビュラへの信頼度を高める方向には誘導していなかったですしね。


しかし、多くの人の場合は、自分の居場所や属する集団がシビュラ社会であることを認識しているので、認識した途端にそれがシビュラに対しての信頼度ということになります。

シビュラ社会では5歳児からサイコ=パスを行っているようですが、少なくともそれ以前の子供に診断を行ってもシビュラ的には意味は無いのでしょう。社会性が無いですからね、赤ん坊には。




では免罪体質者はどんな「信じる社会」を認識しているのかといえば、確固たる自意識の中で自己の存在を確立しているか、自分の周囲を社会として認識していないかのどちらかということになります。

藤間幸三郎と東金美紗子は一般社会で普通に働いていたわけですから、シビュラ社会を認識していないわけではないのですが、それ以上に自己が確立していて、本能的なポジションを置く場所として社会を全く必要としていなかったのでしょう。

ある意味、社会はツールであり拠り所ではないと、本能的に理解していたのかもしれません。
こう考えれば槙島の達観した態度も理解できそうです。

槙島と藤間は明らかに犯罪者なわけですが、『犯罪係数』測定の前提となる「信じる社会」がシビュラではないのですから、彼らの犯罪行為はシビュラ社会にとっての危険度を測ることはできない。そういうことになります。



次に、鹿矛囲はどのようにして色相を浄化していたかですが、これは簡単で、シビュラ・システムよりも鹿矛囲自身を信じさせる、つまり「依存させる」ことで色相をクリアに保たせていたと考えられます。

鹿矛囲はシビュラがスカラーしか測定していないことに気づいていたのでしょう。彼は即効性のあるオリジナル調合のストレスケア・サプリをエサに自分を信じ込ませ、己を心酔させることで「信じる社会」に成り代わったのでしょう。

つまりベクトルは全然シビュラ・システムを向いていないのだけど、鹿矛囲への依存度が高ければ、サイコ=パス診断上はクリアを保てるというカラクリです。

これは対象者がシビュラに怯えていれば怯えているほど効果があったはずです。
一発でシビュラよりも上位に立てますからね。


同じように、東金朔夜は母親に依存していた。
人工免罪体質者であったはずの幼少期の東金朔夜が一転して史上最高値の犯罪係数をたたき出したのも、依存していた母親に見捨てられそうになったことが原因だったわけで、それまでどんな残虐な動物虐待をしても色相が濁らなかったのは、その行為を依存している母親に認めてもらっていたからなのでしょう。

執行官になった東金朔夜が、闇落ちした監視官を執行していたのも、シビュラに取り込まれた母親に己を肯定してもらうために行っていた行為で、美紗子個人は認めていなくとも、シビュラの神託に従うことで、母親にも認めてもらえているという屈折した解釈でバランスを取っていたのでしょう。でなければ早々に彼自身が執行対象になっていたはずです。

もしかすると、遺伝子的な意味では東金朔夜は免罪体質者でもなんでもない、ただの人だったのかもしれません。単に、社会性を持たない子供として育てられ、実験的に美紗子に依存させられていただけなのかも?


そういったカラクリに気づいた雑賀先生は、常守朱に依存している自分に気がつき、自分から彼女の元を去ってしまったわけですね。

ホント、雑賀先生はカッコいいわ。



この「依存」というのは、シビュラに対する忠誠心に置き換えることも出来てしまうわけで、社会を形成しているはずの個人が、社会によって蹂躙されてしまっているという状況を作っており、手段と目的が反対になってしまっているわけです。

こういった統治の仕方が官僚側(シビュラ側)からしたら、最も管理しやすい民衆であるということもまた事実で、シビュラが意図しなくとも、民衆がこの逆転現象陥ってしまっている社会というのが、あの世界の気持ち悪さですよね。

その悪い意味で理想的な市民が霜月美佳なんだよね。




さて、これが朱ちゃんに当てはめるとどうかということが、「2」というか常守朱の物語だよね。

朱ちゃんはシビュラ社会を肯定しているけれども、必ずしもシビュラの判定が正しいとは思っていない。でも色相がクリアであるということは、朱ちゃんが信じている社会はシビュラの基準をとっくに超越しちゃってるんだよね。

この個人の正義が法を凌駕してしまっているというのが面白いところで、そりゃぁ、シビュラも朱ちゃんを取り込んでみようという見解を見せるのも無理はないというものです。





で、ふと思ったんだけど、劇場版の狡噛は、実はシビュラから見たら色相がクリアになっているんじゃないかと。

日本を出て外の世界で正義の基準を見つめ直した狡噛は、もうすでにシビュラ基準の「信じる社会」は持っていないだろうし、彼の信念に基づく世のあり方は、きっと十分なスカラーを有していると思う。

これは朱ちゃんの信じる社会とは、思考パターンも在り方も異なるんだろうけど、狡噛ならばそういった正義を持っている気がする。

しかし、彼が槙島に私的制裁を行ったという事実は変わらないわけで、それを刑事である常守朱が見逃すわけはない。

狡噛が常守朱により拘束された場合、シビュラがサイコ=パス判定に頼り切るのか、それとも集団的サイコ=パスに基づく危険人物として狡噛を見るのか、それとも旧時代の法廷制度によって裁こうとするのか、このあたりは見物だと思う。



まぁ、そもそも海外に出て行った場合、いくらシャンバラフロートがシビュラ・システムが運用されている特区といえども、日本のシビュラ・システムによるドミネーターでの執行は適応されないであろうから、狡噛を拘束しようとした場合、実銃でドンパチやることになっちゃうんだろうなぁ。

シャンバラフロートのシビュラの判定は日本のそれとは基準も異なるだろうから、そのギャップも気になるところです。

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